このホームページの制作がほぼ形になりかけた頃にインド行きとなった。この国で受けたカルチャーショックを何かの形で書き残そうと思いました。ホームページ公開記念に少々長編ですので少しづつ公開して行ければと思います。
ある友人からの誘いで今回のインドを見る旅が計画されました。
まず行きたい場所から行く期間に費用、メンバーは?と色々と考えてみた。パックツアーで行くのは簡単だけれど限られた期間でパックツアーではないものを計画出来ないか模索していたが、私は国内ならばそれなりに計画を立てられるのだが、今回は手に負えそうにないので海外旅行の達人で友人の八幡氏を巻き込んでしまった。お互い建築界に身を置くので、折角行くのだからインドのコルビジェは見たい、しかし同行の友人の川石さん兼近氏にも満足して貰えるような内容も盛り込みたい。街歩きもしたい、一カ所位世界遺産も見ておきたい。欲張りな要望を八幡氏が練り上げて下さった。ビザ申請から飛行機又現地の送迎にミニツアーの段取りと大変な苦労をかけて実現できた事にたいへん感謝する次第です。
最初は2月にとの事でしたが中々まとまらずに、ようやく7月の渡印となりました。調べてみたらちよっと気楽に観光と言う環境では無いようでした。食べ物は水には気をつけよ、生野菜は食べない方が良い、氷を使ったものはなるべく控える。乗り物は日本のようにどんな処に行っても安心料金って事は無いみたいなので、交渉してから乗るべし。など不安だらけなので、短期間の旅なので慣れるまではって事は言ってられないので、車とガイドや空港からホテルまでの送迎も全て日本から予約してからの旅になりました。八幡氏には何から何までお世話になって実現できました。
いよいよ旅の始まりです。今回の同行者は川石氏、兼近氏、八幡氏の3人の友人達です。
2019年7月12日(金)
いよいよ出発。早朝新幹線とはるかを乗り継いで関空へ、台湾帰りの川石さんと合流してタイ航空のA380に乗り込み約30分遅れの12時過ぎに離陸、約5時間30分のフライトでバンッコクスワンナプーム国際空港に現地時間3時30分(時差2時間)に到着しデリー行きの乗り換えで、約2時間半の待ち時間でラウンジに行ってお茶などで時間を過ごして午後6時位に出発、ここからはボーイング787での約5時間30分のフライトで、午後8時55分頃(時差5時間30分)デリー インディラ・ガンディー国際空港着。日本時間午前2時30分である、飛行機の中で少し寝る事は出来たが少々眠たい体で入国審査を受け入国する、同行の3人はそれぞれ審査時間が異なったので困惑するが無事入国となる。
さあいよいよインド共和国入国
早速ホテルからの迎えの人がプラカードを持って出迎えに来て呉れた、暑くて車がいっぱいクラクションが鳴り響く。車まで移動ここまでで迎えの人と別れて送迎車に乗り込みホテルへ。夜着いての街は回りが見渡せないが道路整備や交通状況はわかる、信号があまり無く道路には減速の為か隆起カ所が多くある。これはこの語訪れた街でも同様であった。約20分でホテルに到着するも、入口付近に民族衣装に装飾照明に白馬と音楽の集団が居た。何の事かと思ったらどうも結婚式がこのホテルのホールを借りて行われる余興のようなものらしい、少々たまげた。
タージパレスニューデリーホテルに到着する、日本では無い荷物のX線検査にボデーチェック。それだけ物騒なのだろう、日本は何と緩やかな安全な国かと思いを馳せる。このホテルはインドの大企業タタが経営する、5☆のホテルでインドらしい装飾と空気感が漂う落ち着いたホテルだ。驚いた事にこの規模では小さすぎと思われるフロンでトソファーとデスクか2カ所。混む時はどうするんだろうか。チエックインを済ませて部屋に向かう、ここでも5☆かエレベーターボーイが要る(おじさんだけど)エレベーターに乗り込むにも日本と勝手が違う、まずルームキーをセンサーに当てて階のボタンを同時に押す。ルームナンバーのカウント方法も日本だと205だと2階の205号だが、フロントはFでそこらら客室階が1から始まるのだ。井の中の蛙だ。八幡氏と2人で同室、部屋もゆったりツインルームシャワーBOXに洗面とWC一体の構成。シックで安心感がある、決して新しくないが築約40年で随時改装している、シャワー器具、便器はTOTO製ここで日本製の衛生器具を見るとなんと嬉しいものだ。シャワーを浴び就寝。
7月13日(土)
ホテルレストランで朝食後チャターのTOYOTAの7人乗りの車とインド人の日本語が堪能なガイドがニューデリーの名所を巡って呉れた。主には大統領官邸・国会議事堂、インド門、世界遺産クトゥブ・ミナール、世界遺産フマユーン廟、ロータス寺院、である。
大統領官邸
ここは中には入れないので外からの撮影となったが、この国の大きさを象徴するようなボリュームの建築でこの建物から街路幅が池を含めると約200mの直線で約1.2kmの所にインド門がある。その街路の横にある駐車場は未舗装で路上生活者の住居群がある。インドらしい光景だ。
インド共和国国会議事堂
首都機能をコルカタからニューデリーに移転する都市計画の一環として、イギリス人建築家エドウィン・ラッチェンスとハーバート・ベイカーによって設計された。1921年には建設が始まり、1927年に完成している。1927年1月18日 に完成式典がエドワード・ウッド総督によって執り行われ、翌19日から第3回立法参事会が開かれたそうだ。
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インド門
インド門 (India Gate) は、インドのデリーにある慰霊碑。パリのエトワール凱旋門を基にイギリス人建築家エドウィン・ラッチェンスによって設計された門型のモニュメントで、第一次世界大戦で戦死したイギリス領インド帝国の兵士(約8万5千人)を追悼するために造られた。
高さ42mのアーチには、第一次大戦で戦死したインド人兵士の名が刻まれている。東西に伸びるラージパト通り(Rajpath)により東端のインド門と西端の大統領官邸が結ばれている。永遠の火という火が灯されている。
観光地となっているせいか、やたら写真を撮って売る人が多く構うとうるさいので無視をする。インド砂岩で出来ているようで何故かパリの凱旋門に似ている。イギリスから独立したが刻まれている文字は英語。
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フマユーン廟
インド共和国の首都デリーにある、ムガル帝国の第2代皇帝フマーユーンの墓廟。インドにおけるイスラーム建築の精華のひとつと評され、その建築スタイルはタージ・マハルにも影響を与えたといわれる。ここもそうだが何処の王様もそうだが権力の象徴か何故巨大な墓を造りたがるのか分からない。イスラム信仰も起因しているのかも。
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クトゥブ・ミナール
1200年ごろに奴隷王朝の建国者であるクトゥブッディーン・アイバクによって、クワットゥル・イスラーム・モスクに付属して建てられた。ヒンドゥー様式とイスラーム様式が混在した様式となっている。おそらくヒンドゥー教・ジャイナ教の寺院などを破壊し、その石材を転用して制作されたものであり、建築に携わった職人もヒンドゥー教徒であったと推測されているそうである。石造でこんな高い塔(72.5m)を造るとは。なんでも作った当初は100mほどあって空軍の戦闘機が衝突して折れたとガイドさんが言っていた。以前は昇っていたが階段で事故があって以来一般客は昇れないそうだ。何故かその横にそれ以上の高さのものを造ろうとしたらしい遺跡があった。ほとんどがインド砂岩の加工である、砂岩は加工がしやすい為彫刻も緻密であった。
デリーの鉄柱と言う無垢の鉄で鋳造した柱も建っている、1500年ほど前に作られ錆びてない事が謎だそうだ、99.72%という高純度な鉄(純鉄)で作られており、表面にはサンスクリット語の碑文が刻まれ、頂上には装飾的なチャクラがあしらわれている。直径は約44cm、高さは約7m、地下に埋もれている部分は約2m、重さは約10トン、不思議の国の不思議な建造?物。
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昼食
インド料理の有名店WAVSEと言うお店 観光客が多い、ツアー会社御用達?
この店は結構ツアーで来るお店のようで、セットを頼むと約2000円ですが、単品と200円位の差でカレーは4種類追加無料でデザートにチャイなどが付いてくるので自然に注文する羽目になるそれにドリンクで約3000円です、日本でも高級でインドでも高級(街の食堂はカレー定食は、400円程度からだそうです)です。まあ安全に美味しいと言う事で、短い旅行だし。
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ロータス寺院
インド北部の都市デリーにあるバハーイー教の礼拝所である。ロータス・テンプルとも呼ばれる。開業は1986年12月で、総建築費は、1,000万ドルだそうです。建築家ファリボルズ・サバアの設計、現代建築で蓮の花びらはPCシェルに大理石を打ち込んでいるようだ。RC架構の上に乗っている。施工精度はかなり良い、他の周辺の建物とは明らかに違う。
かなり広大な敷地で入口で荷物チエックとボデーチェックを受けてから入場する (入場料は無料) 。バハーイー教のインド亜大陸の総本山で、ハスのような特徴的な形から、街の観光スポットとなっている。他のバハーイー教礼拝所と同様、宗教等に関係なく内部を見学できる。順番に20人程度まとまって入室して、瞑想して退出する。入場者が引きも切らさず。
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ホテルへ
途中ミドルの人たちが行くマーケットに連れて行ってもらって、インドで一番おいしいと言うワインを買った、マーケットと言っても5坪ほどの広さの店がコ字型に20件位連なった施設であった、着くなり物貰いの子供がタカって来る、追っ払いながら小汚い店を見て回った。少々いかがわしいにおいがする。ワイン屋で買ったが後で知ったが日本の価格とほぼ同じとは。ガイドが案内して呉れた割にはどうかなあって感じだった。すごかったのは紅茶専門店だ、入口のサッシのガラスには剥がれが目立つ黒いシートが貼ってあって、看板もあまり目立たない何かやばいものを売っていそうな感じが漂う、何か日本の雑誌で紹介されたそうで、日本人慣れしていて益々怪しい。色々飲ませて呉れる。我々は信頼できると思えるガイドの紹介なので行ったが、もし土産物などは後日行ったアーメダバードの大きなスーパーのようなとこで買ったほうがが安心だ。この日は日曜日だったし時間が6時30分位で店舗が休みが多いそうだったのでこんな所に連れて行って呉れたのか。まあ現地の空気が吸えた事が良かったのかと。無論首都なので事前に調べたが結構良い大きなマーケットがある。
夕食は昼食が少し遅かった事と量が多かったので部屋で日本から持って来たものを食べたら、飲んだりで終わった。
7月14日(日)
今日はアグーラへ、タージマハルとアグーラ城塞などを見る予定だ。昨日のインド人の日本語が堪能なガイドさんが案合して呉れる。午前9時ホテルを出発する、道中は高速道路?日本の高速道路(自動車専用道路)と少し違ってトラックの荷台に何人も乗って走っていたり、道路端で屋台が出てたり、時にはランニングする人まで居るという。驚くのは時折逆相車があったりする、さすがにリキシャや牛は見かけなかったが我々の住む日本とのギャップに驚く。料金書前には道路に突起があってセーブしている。ただ料金を払うシステムが遅い、見ていると料金を払って受け取った係員がPCに項目を一々打ち込んでいる、これもお国柄か。
高速道路を休憩を挟んで約3時間かけて到着する。ここで初めて牛の群れが道路を歩く姿を見る。通った道路は比較的広いがアスファルト部分はほぼ日本の車線の巾くらいで、アスファルトから建物まで4~5m土又は瓦礫に水溜まりと、雑な感じである。又あまり裕福でない人々が住んでいるところに突然、世界で2つしかないという7☆のホテルが建っている。元マハラジャの邸宅をホテルに改造しているそうだ。ここはそういう国だったという事だ。
タージマハル
タージマハルに到着する、ここからはパークアンドライドである駐車場に車を置いて貴重品、水、携帯電話、カメラ以外の不必要なものは車に置いて行くことになっているそうです。チケット売り場までEVの10人?乗りで約500m、チケットゲートでライフルを持った兵隊?が監視をしている。セキュリティチエックを受けいよいよ中に入る。
タージ・マハルは〔Wikipedia〕(ヒンディー語: ताज महल, ウルドゥー語: تاج محل, 英語: Taj Mahal)は、インド北部アーグラにある、ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、1631年に死去した愛妃ムムターズ・マハルのため建設した総大理石の墓廟[1]。インド・イスラーム文化の代表的建築である。タージ・マハルは南北560m、東西303mの長方形の敷地にある。南端の約1/4部分は前庭があり、その北端にある大楼門を挟み広がる庭園は一辺296mの正方形であり、水路と遊歩道によって東西南北それぞれに2等分され、さらにそれぞれが4つの正方形で区分されている。その北には敷地の約1/4を占める基壇の上に、廟堂を中心に西側にモスク、東側に集会場がある。
南の大楼門はダルワーザー、ムガル式四分庭園はバギーチャー、西側のモスクはマスジド、東側の迎賓施設はミフマーン・カーナー(ジャマート・カーナー[2])、そして高さ42mの4本の尖塔(ミナレット)を従える墓廟はマウソレウムと言う。タージ・マハルの基本設計は、ムガル帝国の墓廟方式の伝統を踏襲している。しかし、例えばフマーユーンの廟やアクバルの廟とは異なる点もある。これらは正方形の庭園の中心に廟堂があり、四方のどの門から入っても同じ景色が目前に広がるように設計されている。それに対し長方形構造と墓廟を北の端に配したタージ・マハルはこの例に倣っていない。また、敷地内にモスクを持つ事も独特である。
大楼門〔Wikipedia〕この門の南には前庭や車だまりおよび従者が控える建物がある。大楼門は赤砂岩づくりで高さ約30m。イスラーム建築で多用される大きなアーチを持つイーワーンであり、両側には八角形の太い塔がある。イーワーンの上には、ファテープル・シークリーの寺院にも見られる白い鍾乳石の型体をした11個の丸屋根がある。
いろんな写真で見ると門から相当距離があるように見えたが、実際には約300mこれは一直線に伸びる水盤の効果かもしれない。この日は水は張ってなかった。
タージ・マハル〔Wikipedia〕南北560m、東西303mの長方形の敷地にある。南端の約1/4部分は前庭があり、その北端にある大楼門を挟み広がる庭園は一辺296mの正方形であり、水路と遊歩道によって東西南北それぞれに2等分され、さらにそれぞれが4つの正方形で区分されている。その北には敷地の約1/4を占める基壇の上に、廟堂を中心に西側にモスク、東側に集会場がある。
南の大楼門はダルワーザー、ムガル式四分庭園はバギーチャー、西側のモスクはマスジド、東側の迎賓施設はミフマーン・カーナー(ジャマート・カーナー)、そして高さ42mの4本の尖塔(ミナレット)を従える墓廟はマウソレウムと言う。
タージ・マハルの基本設計は、ムガル帝国の墓廟方式の伝統を踏襲している。しかし、例えばフマーユーンの廟やアクバルの廟とは異なる点もある。これらは正方形の庭園の中心に廟堂があり、四方のどの門から入っても同じ景色が目前に広がるように設計されている。それに対し長方形構造と墓廟を北の端に配したタージ・マハルはこの例に倣っていない。また、敷地内にモスクを持つ事も独特である。
ガイドさんの説明では現在の庭は作り替えられたと言うことだった。
場所の選定〔Wikipedia〕
北側のヤムナー川から見たタージ・マハルタージ・マハルの建設地には、アーグラ城塞からヤムナー川を東へ約1kmほど下流の河川が湾曲する外側に当たる場所が選ばれた。ここは当時ラージャ・ジャイ・シングが所有する庭園で、彼の曾祖父にして皇帝アクバルの重臣でもあったラージプートの君主ラージャ・マーン・シングが造営したものだった。
この場所は、次の理由から選ばれた。
ムガル王朝の伝統では、墓は庭園の中にあるべきと考えられていた。
ヤムナー川はアーグラ城塞のある場所で湾曲し、同じく河川が曲がったこの場所に建設すれば建物の姿が川面に映りシンメトリーの視覚効果が得られると計算された。
河川が曲がる外側は、それだけ強固な地盤が期待できた。
設計
設計にはイスラーム世界から広く名声を博した建築家や工芸家らが集められた。20世紀にインド政府考古学調査局長のB・L・ダーマは研究書『ザ・タージ』にて設計者をイスラームに帰依したインド人ムハンマド・イーサー・エフェンディーと述べた。しかし、これも当時のヒンドゥー至上主義の影響を受けたもので、事実上設計者名は不明なままである。シャー・ジャハーンの主任建築家だったウスタード・アフマド・ラホーリーの墓碑には彼がタージ・マハルの設計者だったと記されているが、これも多くの工匠らが持ち寄った設計を纏める役割に過ぎなかったと考えられる[2]。
墓廟に刻まれたコーラン
しかし名が伝わる部分の設計担当や工匠らもいる。円筒と組み合わせた丸屋根の設計はトルコから招かれたイスマーイール・ハーン、頂華の製作はラホールのカーシム・ハーン、大理石象嵌はデリーのチランジー・ラール、大楼門や墓廟に刻まれたコーラン文字はシーラーズのアナマト・ハーンとシリアのラウシャン・ハーンの2人の書家、透かし彫りや貴石の細工はバルーチスターンから細工師のアミール・アリー、石組みにはバグダードから技師のムハンマド・ハニーフが呼ばれ、他にも集められた有名な技師たちは多く、知られているだけでも37名が雇われた。彼らは高給を与えられ、例えばムハンマド・ハニーフは月1000ルピー、カーシム・ハーンは月695ルピーを得た。一般の熟練工で月5〜6ルピー、人夫は月1.5ルピー程度だったが、当時の通貨価値では1ルピーで小麦80kgが買えた。
職人はペルシャやアラブ、果てはヨーロッパから2万人ほどを集めた。
建設
17年とも22年と言われる建設期間中には、常に2万人もの人々が工事に携わった。タージ・マハルが建つヤムナー川の岸は傾斜しており、庭園を囲む回廊の外側には厚い石垣が積み上げられ、土地を水平に造成している
建材はインド中から1,000頭以上もの象で運ばれてきたといわれ、大理石はラージャスターン地方のジャイプル産という。赤砂石はファテープル・シークリーの石切り場から運ばれた。翡翠や水晶は遠く中国から、トルコ石はチベットから、サファイアや瑠璃はスリランカから、カンラン石はエジプトから、珊瑚や真珠貝はアラビアから、ダイヤモンドはブンデルカンドから、アメジストや瑪瑙はペルシャから集められた。他にも、碧玉はパンジャーブ地方から、ラピスラズリはアフガニスタンから、カーネリアン(紅玉髄)はアラビアから取り寄せられたものだという。全体で28種類もの宝石・宝玉が嵌め込まれていた。
タージ・マハル建設にどれだけの費用がかかったかは明らかではない。宮廷史家アブダール・ハミード・ラホーリーは著書『皇帝行伝(パードシャー・ナーマ)』にて500万ルピーと記しているが、その他にも980万、1850万、4000万ルピーという説もある。
タージ・マハル建設の意義
ヒンドゥー教徒は墓を持たず、遺体は火葬され遺骨や灰は川に流される。霊魂は永遠と考えるイスラーム教徒が持つ墓は簡素なものに過ぎない。ムガル王朝の皇帝は大きな霊廟を備えたが、これは専制君主の権勢を示す目的があった[4]。権力を握っていたわけでもないただの王妃に対し壮大な墓廟が建設された例は、他にはほとんど無い[3]。
タージ・マハル着工の頃、シャー・ジャハーンはヒンドゥー教を抑圧する令を発するなど、イスラーム教国家建設に取り掛かっていた。その中でタージ・マハルはイスラーム教徒の精神的中心として構想された。聖者信仰はイスラームにもヒンドゥーにも見られ、その墓所は霊力が宿るという考えはムガル王朝期のインドでは強かった。ムムターズ・マハルを聖者とみなす根底には、イスラーム社会が女性に夫への愛と子を生すことを求め、産褥による死は男性が聖戦で死す事と同義とみなす母性信仰があり、生涯で14人の子を産み36歳で死んだ彼女は殉教した聖者になるに充分だったと言える[9]。
この意義に叶うため、タージ・マハルは巡礼者を受け入れる施設を持たされた。訪問中にメッカへ礼拝するためのモスク、食事や宿泊のための集会所、巡礼者の車場置き場、そして外部の市場もこの機能を補助した。タージ・マハルが完成した時に、その美しさにシャー・ジャハーンが詠んだ詩には、ここが罪を負う者が悔恨し、罪行から自由になり、許され清められる典雅な高殿であり、神の光とともにあると述べられている。
ここで初めて日本人の観光客に数組出会った。この時期は雨期で日本からの観光客はあまり来ないそうです。今回のガイドさんも8割が日本人相手で2割が英語圏のお客さんでこの2か月間は自宅待機だったと言っていた、彼はデリー大学で日本語を学んで今の仕事を約30年やっているとか。日本には来たことは無いそうだが、日本には詳しかった早口で日本語を話すのは少々驚いた。
昼食
遅い昼食はガイドさんが連れて来て呉れた、観光客が良く使うタージマハルから遠くないインドレストランでカレー色々セットとビール。暑いからビールが旨い、インドのビールは意外とあっさりとして飲み口が軽い。辛いカレーに良く合う。
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アーグラ城塞 タージマハルの東へ約1.5kmのところにある城塞である。
アーグラ城塞〔Wikipedia〕英: Agra Fort)は、インドのアーグラにあるムガル帝国時代の城塞。赤砂岩で築かれた城壁の色から「赤い城」(ラール・キラー, Lal Qila)の名がある。ただし、デリーの城も同じく赤い城と呼ばれ、単にインドの「赤い城 (Red Fort)」と言えば、通常はデリーのほうを指す。デリーからアーグラへの遷都に伴い、皇帝アクバルが1565年に着工して1573年に完成した。その後ジャハーンギール、シャー・ジャハーンまで3代の居城となった。
アウラングゼーブが兄弟間の後継者争いに勝つと、父であるシャー・ジャハーンをタージ・マハルの見える城塞内の「囚われの塔」(ムサンマン・ブルジ)に幽閉してデリーに移った。外側から見ると赤砂岩主体の「赤い城」であるが、城内の宮殿には白大理石も多用されている。ムサンマン・ブルジの内壁や床は幾何学的な装飾が施された白大理石でできている。 1983年にユネスコの世界遺産に登録された。
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アーグーラからニューデリーに帰ります
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午後7時半位ぎにホテルに着いた。
今晩の夕ご飯は昼ごはんが遅かったのであまり空腹でなかったのでメインバーで飲むことにした。
このバーはオリエント急行をテーマとしたかの内装で、客車をそのまま入れ組んで装飾し直した
高級感漂うものと、我々が座ったテーブル席にはピアノの生演奏がある。バーカウンターもあってすごくシックで期待した。ディナーが主のようだ演奏は我々を日本人と知ってか日本の懐メロをやって呉れた、ただバーは大した事は無く、ジントニックは氷の入ったグラスにジンを注いだものと、缶入り炭酸水が運ばれて来て自分で炭酸水を注い作るのだ。興ざめだ。お客さんはそれは上級な人達が静かに満喫している。我々が場違いだったのかも。
2日間のツアーの感想
アグーラにあるタージマハルとアーグラ城塞とその周辺を見て、建築物のデザインと空間はイスラム様式でされている迫力のあるものだが、これを少し見ただけでは理解できない、インドの歴史風土などを学習して何回か見ないと分からない。ただ木材の使用はほとんど見なかった、ほとんどが石でできている。ニューデリーからアグーラに至る高速道路からは多数のレンガ工場が見えた。手ごろな建設材料なのだ、その為の材料である土は田んぼを掘っていたことが、あっちこっちに見受けられる、こんな事をするそこだけ低くなり排水が難しいので米作りには大変かと思える。そんなあたりに一帯を道を除いて低い地区もあった、田んぼには水路らしいものがあまり無いのでどうしているのか聞いてみると、ポンプアップで地下水を利用しているようだ。近年インド全土の20位の都市の地下水が枯渇していると聞く。インドが発展するのに水は欠かせないがそれが難しいとなると今後の成長が厳しい感じもする。
ここまでで感じた事は、近年まで続いたカースト制度なのどの名残が街全体から感じる。つらい時代から脱皮中のインドを垣間見ることが出来た。我々日本は宗教と言ってもなんとなく仏教で、節目は神社で結婚式はキリストさんと言う国に生まれて生活をしていると、強い宗教どうしが共存している国の事は理解するのにはもっと触れないと理解できない。仏教発祥の地の国でヒンドゥー教徒80.5%、イスラム教徒13.4%、キリスト教徒2.3%、シク教徒1.9%、 仏教徒0.8%、ジャイナ教徒0.4% なのだそうだ。最近はイスラム教が増えているとか。〇〇バードはイスラムが作った町と聞く。
今回、ニューデリーとアグーラで見た建造物は、くしくもイスラム教由来のものが多数で、観光と世界遺産で括るとたまたまそうなったのかも知れないが、次回行く事があれば他のものも見てみたい。
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7月15日(月)
今日はアーメダバードに向かって出発する。現在日本のJR東日本がムンバイからアーメダバードまで新幹線を通す計画を進行中である。
8時20分位にホテルを出てインデラガンジー国際空港の国内便乗り場へ向かう。国内便とてパスポートに航空機チケットの確認に荷物のX線検査とボデーチエックの後ゴーエアー航空の受付カウンターへ向かう。国内便は預け入れ荷物が15kg(LCCの為か)事前に計ると15㎏弱で心配したが4人まとめて計って呉れて難なくOK。その後出発の11時30分のボーディングまで空港内散策するも、たいしたものも売っていない。時間が来てバスで航空機まで移動しA320に搭乗する。約2時間弱のフライトである。12時45分アーメダバード空港到着する。見たことのないTOYOTAとHONDA車の看板に驚く。荷物を受け取り迎えの車で今日の宿ダブルツリー バイ ヒルトン アフマダーバード SG ハイウェイ5☆16階建て173室 (通常価格1泊約15000円)に向かう。
車窓から見る街の風景が前日まで居たニューデリーやアグーラとは違いまだインフラ整備が整っているかと思えた、とは言えスラムはあり屋台も目立つ。おそらくは人口密度がそれまでとは違い低いのかも知れない。しかし道路は車とリキシャとバイクの洪水と騒音は変わらない。よく事故にならないのか分からない、アイコンタクトと慣れなのだろう。
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アーメダバード到着
現代建築がそれなりに建っているその下の道路は未だに洪水の様。
約20分でホテルに到着、ホテルは少し郊外にで回りは新築ビルやアパートが多い。。
ダブルツリー バイ ヒルトン アフマダーバード SG ハイウェイ ヒルトンホテル5☆だそうです。
外観はくねくねしていますが、施工精度がついて行けてません、残念ですねえ。内部はまだましです。やはりヒルトンですアメリカンな感じがします。
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少し休んでからいざ街中へ繰り出します、とは言ってもワクワクよりも戦々恐々です。やはり最初にマーケットに行きたかったので近くのショッピングセンターへと向かう。地図では近くにあると出ていたので徒歩で約500mなので歩いて行ってみました。
調べてみるとアーメダバードで一番大きなショッピングモールらしい、ただ中に入るともう閉店した店だらけで、地下のお店はアウトレットになっていて、まだ20年くらいの感じですが終焉を迎えていました。出来た時は大津イオン位はあったのかもしれませんが、落ちぶれています。店内にハトは飛んでいるはでオカルトです。
気を取り直して次のショッピングモールを目指します。八幡君がショッピンモールグモールの前に居たリキシャのおじさんに交渉して100ルピーで行って呉れる事になった。
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このショッピグモールはまるで日本のモールとよく似ていて、どこに居るのか錯覚しそうになります。ナショナルブランドも勿論出店していて百貨店のような高級店ではなかったが、日曜品は一通り揃う感じだ。REGALという靴屋があってインドのショッピングモールに出店かと驚いて入ったらREGALの靴は置いてなく単なる店の名前であった。REGALはインドにまで聞こえているのだろうか。おもしろい。
このショッピングモールの地下はイオンモールのジャスコみたいな感じで食品から日用品、衣料品など多彩でした。紅茶などは質は分かりませんが、箱入りのものがニューデリーのそれとは比べ物にならないくらいの価格で売っています。アーメダバードの州はイスラム教のせいかアルコールは公で飲んだり売ったり出来ないようで、ここでも売っていませんでした。お土産は空港の免税店で買っても中身が分からないので、一般市民が買うものが一番信頼できる。それが良い買い物かなあと改めて思った。買い物を終えて帰りにハイアットホテルでお茶でもと思ったが、またセキュリティチィエックを受けてはさすがに面倒くさいのでやめてリキシャでホテルへ戻る。
今宵も昼めしが遅かったので適当に持って来たものを消化したが、ここはアーメダバードだ。酒が無い、無論ホテルのレストランにも酒の提供が無い。困った!止むを得ずニューデリーの酒屋で買ったワインを1本提供する羽目となったが、疲れた体には丁度よいくらいで皆の寝酒となって良かった 。これから2日間は酒が飲めない。
7月16日(火)
今日はアーメダバードの建築見学ツアー。アーメダバードにはコルビジェやルイスカーン作品それに昨年プリッツカー賞を受けたインドの建築家バルクリシュナ・ドーシが造った作品もある、氏のアトリエある。もちろん歴史的建築物も多数。今日はチャーターをした車とインド人でヘリテージ活動をしている英語のガイドが付いている。英語は最悪翻訳アプリで乗りきります。
インド経営大学
世界の巨匠ルイスカーンとインドの巨匠バルクリシュナ・ドーシが設計した、インドの知能が学ぶ大学である。建物は〔Wikipedia 〕には『1962年、IIMA理事会は、国立設計研究所(NID)とIIMアーメダバードキャンパスの設計作業を引き受けることを正式に合意しました。国立デザイン研究所は、このプロジェクトの建築家としてアメリカの建築家Louis KahnとB.V. Doshiを任命しました。 Kahnは1962年から1974年の死までIIMAプロジェクトに取り組みました。
カーンの建築は、露出した赤レンガの使用、ホステルや学術街区での幾何学的形状の広範な使用、そして教室外の広大な廊下によって特徴付けられています。彼はインドの伝統的な建築と荘厳な建築と現代建築を上手に組み合わせました。その驚異的な建築への影響で、多くの観光客や建築学生がキャンパスを訪れることがよくあります。』とある。
確か学生を卒業した頃にルイスカーンの特集か何かで見た記憶がある、まさかインドに来るとは思っていなかったが、今回来ることになって実際に見ることが出来た。
レンガ造とあるが、RCと併用だと思う。インドはアグーラに行く途中でも見かけたが、レンガがインドの代表的な建材なのだろう、それをルイスカーンはデザインの要素に取り入れたのではないだろうか。道中見かけた工場で生産されたと思えるレンガは製造精度がそう良いとは思えなかった。この建物のレンガはタイルのような精度だった。赤いのはインド産赤砂岩の赤が多く使用されているので馴染みが良い。出来た当時はどう受け取られたかが知りたいものだ。そこはドーシも参加しているのでそんな選択だったのか。使用材料はレンガ・コンクリート・インド産緑の石に木材・鉄・ガラス。全体をまとめると思われる機能の建物は中央にあり教室や学生のコモンの建物は同じパターンの建物が並ぶ、単調なはずがそう感じなかった。アグーラ城塞を見たものとシンクロし感じたのだった。円形のモチーフが繰り返す。インドの気候を配慮したものか吹き抜けに多く風の道が、廊下も広く風の道が通る。影の出来方が計算されている、インドの日差しに良く考慮されている。
アーメダバードの気候は最高気温が28度くらいから42度くらい最低気温が13度くらいから28度くらいとある。この7月は雨期でそれなりの気温だが寒い時期もあるが、その時期にも快適なのだろうか。しかし行った時は廊下に居ると気持ち良い、ここがあの騒音まみれのアーメダバードか忘れるくらい静かだ。この建物は40年前に完成したが今でも古さより空間の新鮮さには驚く。新館はドーシの設計だそうだ、新館の建物はRC打ち放しとレンガとサッシとガラス・鉄である。安藤さんの初期の建物にどこか通ずるものを感じる。安藤さんの建物はもっとディテールに厳しいし、また繊細だが。どちらかに影響があったのは感じた。建物は同じデザインが連続して豊かな空間を作るのは至難だ。
建物の劣化か、レンガのアーチにクラックが入りサポート建ててあった、至急修理が必要だ。インドの知能がこの大学から今後ここからもっと生まれることだろう。
見学を終えて振り返ると、ルイスカーンが携わった旧館は用途が考えられた数種類のパターンの建物が、幾何学的に並んだ構成となっているが、レンガと円形のモチーフ、時に四角い開口で構成されていて樹木が旨く繋ぎ役となって一つの城塞に見える、新館はバルクリシュナ・ドーシの設計であるが旧館のモチーフを生かし素材がコンクリートになって空間がシャープだ。廊下の質感は新旧同じようなものを感じた。しかしながら光の入れ方、風の抜け方には良く考えられている。特にこのアーメダバードに合っている。この大学は敷地内外でこれだけ喧騒に違いがある。広大な敷地のせいかもしれないが、使う人達の違いかとも思った。
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サンスカル ケンドラ美術館
サンスカル・ケンドラ美術館は 当時のアーメダバード市長の依頼により、知識を統合する施設の一つとして建設された。設計はル・コルビュジェである。
この美術館の原型はポール・オトレ(図書館の書籍分類方 法、国際十進分類法の発明に寄与した)の発案の全ての知識を収蔵する事を目的としたムンダネウム計画に参加したル・コルビュジエが提案した無限発展美術館である。
建築的な特徴としては、一階部分をピロティとし、中央部には14mx14mの中庭がある。そして中庭にあるスロープを通じて2階 のエントランスへいたる。繊維会館も同じ、インド経営大学も2階へ。
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繊維工業会館
巨匠バルクリシュナ・ドーシと偶然遭遇、ビックリ!
この建物はアーメダバードのジャイナ教の富豪達が繊維工業で財をなして、コルビュジエに 集会場の設計を1951年に依頼したとのこと。敷地はサバルマティ川の川辺に位置する、ル・コルビュジエは敷地について「敷地となる庭園は河を見渡す位置にある。そこには染織の作業を進める人々の情熱的な光景が繰り広げられている。人々は綿繊物を洗い、砂の上に乾かす。傍らでは、アオヤギや牛、水牛、ロバが涼を求めて河に身を浸している。これらの情景に眺望という額縁を与え、夜には、大会議室や屋上でパーティーを開けるような数階建ての建物の依頼を受けた」。と言ったそうだ。建築的な特徴は、建築をインドの気候風土に調和すべく様々なアイデアで、インドの日差しを考えたブリーズ・ソレイユ、柱に支えられたパラソル型屋根、U字型の屋根、外部と内部が連続するバルコニーなどとなっているが写真は内部は撮影出来ないので無いのが残念である。
ここの見学でコルビジェの作品が世界遺産に登録されたので写真の起こし絵とコースターを買ってということで買った。いくらかは修復の足しになればと思うが。
ここで偶然2018年にプリッツカー賞を受けたバルクリシュナ・ドーシさんと出会った、撮影取材中だったみたいだ。彼の娘さんが居られて話をするとドーシさんは、日本の建築家の友人に槙さんと磯崎さんがいると言っていた。握手したが神のようだった、御年90歳まだ介添えはなくシャキッとしておられた。今だSANGATHの主です。
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昼食
レストラン アガシエ
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ダーダ・ハリール階段井戸
王妃ダーダ・ハリールの廟に離接したところにある井戸だ。イスラム様式の装飾で四角の井戸とその奥に円形の井戸がある。井戸即ち水は生命維持の重要なものをこう大層なものを造ったのには権威的な意図があるのではないかと思える。現在は使われていない、この雨期に水が溜まっていなかった。
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ルダ階段井戸
ヴァーゲラー朝のルダ・バイ王妃が1499年に造ったもので3つの入口を持ち5層30mの深さ、長さは70m幅25mの堂々たる階段井戸だ。イスラムとヒンズーの装飾が混在する。3か所の入り口がある。入場料を払って入る、周囲は公園になっている。ここは少し水があった。
アーメダバード空港の手荷物受取場の壁や柱に
井戸の写真のクロスが張ってあった、ここ
ではないかも知れないが、アーメダバード
の名所が井戸のようだ。
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ホテルに帰りシャワーを浴び日本から持って来たものを食べて就寝
7月17日(水)
いよいよ今日が実質インド最後の日で夕方ニューデリーの飛行機まで遺跡と街歩きにドーシのアトリエ訪問、そしてガンジー労働研究所を見て回った。
Sarkhej Roza
インドのグジャラート州にある都心から南西に7km離れたMakarbaの村にあるモスクと墓の複合施設です。広大な土地に池があって池に面して建物が迫り出している、行った時には水が無くて、水があるときに池の周りから見ると水に浮かんだ神秘性に富んだ建物に見えた事だろう、ヨーロッパ的な感じを覚えた。入ると池が見えるところで建築系の学生がスケッチをしていた。丁度お祈りの時間か大勢の信者が祈りをささげていた。
こからは何処かの2カ所のモスクに連れられて行きました。あまり良さが理解出来ていません。
ジャンマ・マスジッドと言う大きなモスクの周辺は市民の商店が並ぶ街だった。近くに市場もあってインドにちょっと触れたような気にさせて呉れた、やはり街歩きでないと分かりませんね。
ここを抜けると昨日ランチで訪れたアガシエに行きついた。ここで待機中の車に乗り込みドーシのアトリエサンガトに向かう、13時から13時半までがオープンタイムで誰でも1000₹払えば開設者付きで見学できる。
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SANGATH(サンガト)
いよいよサンガトに来た、昔村野藤吾さんの阿倍野の事務所に行った時と同じような空気感がある。
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ガンジー労働研究所
ここはバルクリシュナ・ドーシ氏の設計による。
ニューデリー空港に到着後ホテルにチャータータクシーでホリディ・インニューデリーインターナショナルエアポートホテルに向かう。
このホテルは名前の通り空港のそばにあるホリデーインが作った5☆ホテル、実にアメリカンな空気感のホテルだった。ここのホテルの部屋の計画が迷路のようだ、2回も迷った。これは如何なもんだろうか。疲れもあってシャワーの後バーで飲んで就寝した。
7月18日(木)
朝起きてメインダイニングで朝食をたっぷり食べて午前8時30分出発しここから24時間の帰国の始まりだ、日本には19日午前7時40分ころ到着予定だ。インデラガンジー国際空港に向かう、出国審査を受けた後出発まで免税店などで時間をつぶしていよいよ午前11時40分発でバンコックへ向かう、約5時間のフライトである。機内食を食べちょっと眠っている間に着いた。ここで約6時間のトランジェットなのでしばし空港を楽しむことにした。まずはタイ式マッサージを試す事に、90分フルコースを日本円で3000円をだ(けっして安くない)。受付のおねえさんはやり手ババアの感じで受付の周りにはマッサージお嬢が10名ほどたむろしている。ここが空港でなければ怪しい店みたいだ、料金を払って入室すると薄暗い部屋でレースのカーテンで仕切られた部屋が5~6室あるようだ。マッサージのお嬢さんと思いきやお兄ちゃんがやってきてグイグイやって呉れた。終了した途端チップを要求してきた、バーツもドルも持っていないので50円玉を2枚渡したがチェンジ出来ないとぐずったが強引に渡して出店したが後味が悪い。その後気を取り直してビールなどを飲み、その間に土産物を買いに走る、空港のフリーwihiの設定をインフメーションで聞いたが分からないので再度行って分からないと言ったら嫌そうに舌打ちして設定して呉れたが、これでは国の顔みたいな所でこの対応はいただけない、日本ではありえない。それに免税店と言っても日本のネットで買うより高いのは何とも言い難い。そんなこんなで時間をつぶし時間が来たのでボーデングゲートに向かったが、これが一番端にあった。その道中の長いことに驚く、現在新しい建物が増築中であった、この国の経済状態が反映しているのだろう、関空の倍はあろうかと思えたのは免税店の数か平面計画のせいかも、でもすごい勢いを感じた。
少し遅れて、来た時と同じエアバスA380に乗り込むが席の状態は7割位の感じだった、隣の川石さんのモニターが不調で別の席に代わって行かれたが、横になって寝られたようだった。ただ出発時間が日本時間で2時30分位で乗ったら暫らく着くのが午前7時40分して夜食が届いて寝鼻をくじかれ、冷房がきつくあまり眠れなかった。
7月19日(金)
日本では台風が近づいていたが、関空はさほどの影響が無く少し遅れて到着した。8日ぶりの日本である。スーツケースのキャスターが壊れたのでタイ航空で証明書を貰った後、電車で新大阪に向う、そこで乗り継いで新大阪から新幹線で姫路に着いた。午前11時過ぎであった。
8日ぶりに見る姫路駅である、まねきでビールとうどんで帰国祝いをして解散となる。久しぶりに長い間の旅でした。
今回の旅を振り返ると、まさにカルチャーショックだった。約20年前に行った上海は阪神大震災後の神戸を見ているかのような光景があって衝撃的ではあったがそれでも消化できた。
インドの事情はほとんど学習出来てなかった、you tubeでインド在住の日本人が配信した画像
や、国の情勢など、歴史をサラッと学習ぐらいだ。誰でも言うが、やはり「百聞は一見に如かず」だった。
現在とスラムとが同居している、乞食は居るわ、格差は有るわ、道路端や歩道など壊れたところは整備されて無いわ、整備されていてもキッチリする気は有るのか無いのか。ニューデリーのホテルの床の石工事やタージマハルで見た石細工が出来るのに。川の水は汚れているわ、地下水が枯渇しているところはあるわだ。しかし人々の活力には相当なものを感じた。ニューデリーは首都とはいえ大統領官邸付近の整備状況も途上だし、観光客に群がる小商売人は居るわ。これはヨーロッパでも30年くらい前まで居た。庶民の経済状況が先進国位にならないと無くならないのかもしれない。GDP世界7位だが人口が13億超えなのでまだまだなのだが、成長率が7~8%なので近年近づく可能性が大だ。大いに期待したいところである。日本企業もそんな成長率を見据えての進出が増えている、ユニクロがいよいよ出店すると聞いた。これからも色々な業種が進出していくことだろう。インド人は数学的なものに長けるので、相当上手くやらなければ成功は難しいだろうが可能性は大いにある、乞食は居ても月に探査機を運ぶ国であり、核弾頭保有国だ。水を確保せねばその可能性は薄いかも。しかしおそるべしインドを垣間見ることが出来た。
国を見る時には地政学的に解析しないといけないと言われるが、私にはそんな事は出来ないので感じたまま書き残すことになった。これからゆっくりと消化していきたい。
資料
インド共和国〔Wikipedia〕
{概要}インド(ヒンディー語: भारत गणराज्य、英語: Republic of India)、またはインド共和国(インドきょうわこく)[注 2]は、南アジアに位置し、インド亜大陸の大半を領してインド洋に面する連邦共和制国家。首都はニューデリーまたはデリー、最大都市はムンバイ。
西から時計回りにパキスタン、中華人民共和国、ネパール、ブータン、ミャンマー、バングラデシュと国境を接する。海を挟んでインド本土がスリランカやモルディブと、アンダマン諸島がインドネシアに近接している。インド本土は、インド洋のうち西のアラビア海と東のベンガル湾という二つの海湾に挟まれて、北東部をガンジス川が流れている。
1947年にイギリスから独立。インダス文明に遡る古い歴史、世界第二位の人口を持つ。国花は蓮、国樹は印度菩提樹、国獣はベンガルトラ、国鳥はインドクジャク、国の遺産動物はインドゾウである。